山崎秀惟回想録 
(特別操縦見習士官第1期生 昭和18年10月桶川教育隊入校)

今回の桶川市の記念事業として懐かしい教育隊の手記を書いてほしいという担当の鈴木さんから御依頼がありありました。少しでもお役に立つなら同期生生存者の一人としての義務感を感じ、敢えて拙筆を執る事にしました。


昭和18年7、8月でしょうか、当時、明大学の法学部に在籍(学級委員)しておりましたが、陸軍特別操縦見習士官募集の掲示がされました。17年8月には海軍で既に次兄が戦死し、佐世保の海兵団葬に父と参列したのでありますが、戦況は日に日に悪化しておりました。故郷に帰ると、小学校の同級生の入隊祝いに招かれましたが、こちらは学生服のままでの出席でしたが、間もなく、その入隊者の戦死の知らせを受けると云う様な有様でした。学問も棄てたくありませんでしたが、国、世界で唯一の3,000年の歴史を誇る天皇制を中心とした日本の学生は学徒徴収延期令により、徴兵検査の延期の恩典に浴していました。そんな折、父が「お前だけは乞食になっても大学にやってやる」と父が言ってくれた言葉は今でも忘れることができません。

私の家系は、南朝の忠臣菊池氏の源流であり、心は戦いに行って兄の敵を討つと言うデカイ事が頭から離れませんでした。父の期待に報いる為にももっともっと勉強したい。然し、国の為にも戦いたい。忠ならんと欲すれば孝ならず、孝たらんとすれば忠ならず、の心境でした。学校にもいかず、10日間ほど考え、悩み、苦しみ、今で言うノイローゼになってしまいましたが、結局、「国破れて何の学問ぞ」と云う言葉を思い起こし、兵隊に志願する覚悟を固め、その手続きのために登校しました。10名近くの学友が寄りましたが、みんなに自分の決心の経過などを話したら「よし、俺も行く」という者も出てきました。

事務室の阿部大尉の所に「陸軍特別操縦見習士官」の願書を貰いに行きました。その時は、在校生ではなく卒業生を対象にしているのだと云われましたが、自分の決意の動かぬことを話し、手続きを済ませました。大尉が分厚い「極秘」の印の押してある書類を右手に何か調べているので、ソット盗み見したところ、「宮崎県士族山ア秀惟士官通」とありました。これで、第一関門は突破です。資格は、明治大学本科修了(学級委員長、軍事教練の場合小隊長となり、サーベルを下げられる)です。毎日新聞の記者がきていたのでしょうか。後で大きく全国版で報道され、それを読んだ山形県人から、感激したという手紙を頂きました。毛筆の達筆で漢詩みたいな文章でした。現在も大切に保管しております。

志願したことは、父に無断の行動でした。父の気持ちはどんなだったでしょうか、厳しい父でしたけれども、許しを乞いてはならぬという複雑な気持ちで帰りました。


家に帰っても、父とは殆ど話すこともなく夏休み1か月間を過ごしました。そのうち、一次試験の通知が届きました。一次試験は東京大学で行われました。学科試験の内容は思い出せません。適正検査の係官は士官学校の少佐殿でした。視力は1.2以上でしたが、小学校時代も6年間無欠席の年はなく、旧制中学の時は2年の時に1年間休学すると云う病弱な身体でしたが、スポーツ関係は大好きで、特に陸上競技は得意とするところ、柔道は戦争前の二段、身長は今も同じ1メートル70、体重は60kgですが、色々な検査を済ませ、最後に、縦約2m、横1.5m位の襖を一回り大きくしたような鏡の前に、褌1枚、直立の姿で立たされました。体のバランスを見る為でしょう。
 
その時試験官が「ウーん、士官にも一寸居ないね」と呟く声が聞こえました。心中、ヤッターと云う感じ、最高の喜びでした。
 
今迄、色々なスポーツである程度の成績は挙げてきました。体重がないのが一番の悩みでしたが、第二関門も通過し、夏休みに、父は機嫌が悪いだろうと思いながらも実家に帰

りました。父も国の為であるからと怒ることも出来ずにいたようですが、心中は複雑だったろうと思います。


二次試験の通知が届きました。しかし、試験に行くにも金がない。父が「ドゲンスットォ」(薩摩弁でどうするのか)たった一言いいました。私は、小さな声で「行きます」。

二次試験にも合格しました。二次試験の番号は33番、一次試験36番、合格番号6番でしたから、一期生2,000名のうち早い方です。6番の札を持って入隊の手続きをしました。実家には覚悟を固めて帰りました。入隊のお祝いは、2日間に亘ってやってくれました。長兄が剣舞を、私は詩吟をやりました。(当時、明大の詩吟部長でした。)父は持病が重く心労もあり、大分疲れたことだと思います。

入隊のときは、父に替わって長兄が送って行くと云いまいしたが、父は「いや、もう俺の子ではない。天皇陛下の子だ。門までは俺が届ける」と云って支度をしました。駅迄4km、私は馬に乗り、後ろから親類、小学校の児童達が列をつくって薩摩独特の曲で、太鼓、三味線をならして駅までの行進しました。肩には校章と日の丸を書き、辞世の句「財が家の名もなき親の子なれど 仕えまつらむ大君の辺に」をしたため、さらに、一面に親戚や友人の寄せ書きをした布を肩に掛けて出発しました。


超満員の列車に乗り、父は横になれましたが、私は殆ど立ち尽くしの状態でした。集合場所が上野駅近くと云うことで、池袋に宿をとり、父にはマッサージを頼み、6名の親友を呼んで父を中心にして記念写真をとりました。
 
翌日、上野駅に行きました。一様の見送りの人波、殆ど明大の人達でした。親友に騎馬になってもらって「海ゆかば」を合唱、何とか改札を出て父を見付けることが出来、大宮経由で桶川に何とか到着、入隊の手続きをした後、軍服を着て曹長刀を下げた姿を父に見せました。しかし、これが父との最後の時間になってしまいました。
 
(これから箇条書きにします)

・父死亡すぐ帰れ
訓練も順調に進み、段々個人差も出始める頃、12月12日「父死亡すぐ帰れ」の電報です。訓練を終えてピストに着くと、小花教官から「山崎、帰るか」と云われ、ハッキリ「帰りません」と返事をしました。井上助教からは「残念だったな。一週間位は、何が何だか分からないから、焦らずに早く落ちつくことだ」と言われました。

一週間かかるところは二、三日で、と一生懸命訓練を受けましたが、矢張り、暫くは操縦桿を握っても、父のことばかり考えていて何をしているか分からない有様でした。

・ 日常のこと、第3内務班
午前5時起床。「関東の空っ風とカカア天下」の通り、起床ラッパと共に跳ね起きて、一同教室に集合、直ちに上半身素っ裸、乾布摩擦エイッサーの掛け声、朝の点呼は断然一番乗りでした。

・余談
ある晩、消灯ラッパが鳴った途端、「起床ッ」と叫び声、皆ビックリして封筒ベッドから首を出したが、オカシイー。暫くして、犯人は足立見習士官と分かった。気合十二分、オドカスナイと云う事で一件楽落着。

・朝
時間は忘れましたが、毎朝食堂で食事。中味は何が入っているかサッパリ分からない。思えばコーリャン、丸麦、玄米、外来の玄米類ではなかったろうか。ガリガリと固くて喰えたものではなかった。それに10分間で喰えと云うのだから苦しい。半分も食べたらよい方だったろう。10分過ぎるとすぐ、四列縦隊、戦隊歌リレーをドナリながら、少風を吹き飛ばして一路飛行場へ向かう。

・陸軍次官富永中将
外出の時、駅迄歩いて行く途中「陸2」ナンバーの高級車がスッと追い越した。陸軍次官富永中将の息子のお迎えだ。公用車である。クッソと、思はず車めがけて石を蹴ったが届かなかった。彼は慶應大学で身長は低く、1.5m台であったろう。序でに富永中将のことを述べます。時々、中将は自分の息子が学んでいる桶川に公用車を飛ばして見に来ていました。陸軍次官で大変な状態の国情だったのに、ヒマがあったものです。

隊長中島大尉はふり向きもせず、もちろん敬礼もせず、ソッポを向いているようでした。この人は、後にフィリッピンの航空司令官となり、何か観兵式みたいな事をやり、米軍の攻撃を受け大損害を被り、台湾の温泉のある北斗に移動して、そこでフィリッピンの空軍指揮をとったと云うことです。後で、私共第3練成飛行隊の隊長として来られた杉本少佐の話では「富永を降ろすな」と云う行動もあった様です。中将は桶川の帰りに、チャッカリ野菜などを車に乗せていました。私も目撃したことがありますが、何だか嫌な気持ちになったことを覚えております。
  
富永見習士官は外出の帰りも(陸2)公用車で帰って来て、我々は駅から徒歩です。癇癪に障って、また車を目掛けて石を蹴ったところ、今度は車にあたってしまい、カチャッという音がしました。

・中島隊長のこと
中島隊長とは直接話をしたことはありません。訓練時間中、ずうっと様子を立ったまま見ているだけの人でした。何かの祝典の時、捧げ刀をした時、軍刀を抜かれたのを見ましたが、中味は鞘の半分もないもので、なる程と思いました。終戦の時、私は台中の陸軍病院に暫く入院していましたが、そこに、中島少佐も入院しておられました。重爆の戦隊長としてフィリッピンからの引き上げ組みだったのしょう。

・新聞社の取材
何月だったか、新聞社の希望だったのでしょう。小花教官が中心となられて井上班の者全員が円座をつくって、アグラを組んで座談会みたいなことがあり、後日、写真入りで報道されました。

・手紙
事務所から呼ばれ、何の事か分からぬまま、係の小野准尉の所に行くと、封を切った手紙を渡されました。見ると、やさしい女性の名前で、是非遊びに来て下さいという内容でした。野郎どもばかりで殺風景の毎日ですから、妙齢の美女と会えると云うことは久し振りで、それも私一人だけも来てくれということには、内心ニッコリとなるのは当然でしょう。准尉から「行くか?」と云われたが、まだ、修行中の身、然も、人事係の准尉である。位もあと数か月で私の方が上になるのだと知っていても、今は曹長、我慢のしどころです。「行きません。」の一言で手紙も返却してしまいました。後で後悔しましたが。

ある夜、井上助教から、井上班は全員オレンところに来いとのこと。当直か何かの日だったのしょう。何も知らないものだからビクビクしながら行ったところ、ニコニコしながら、一杯飲めと酒を差し出されて、恐る恐る頂きました。あの頃は酒の味も分かりませんでしたが、ホッとしたのを覚えています。

何かの時に、井上さんが「日本中の酒を飲んでみたい」と云われたことがあります。本当にネッカラの酒好きだったのでしょう。戦後、歳暮に酒を贈っていましたが、向こうからは沢山のリンゴを頂いておりました。こちらは今ブームの焼酎です。宮崎の桶川会で、焼酎を出したらすぐ不足して追加したくらいでした。

・訓練
特殊飛行(高等飛行)の訓練に入る前に、錐揉みに入ってその止め方の実習があり、眞逆かさまになって、下界を眺めた時の地球の美しさに驚いたことは今でも思い出します。大した事故もなく訓練はスムースに進み、誰が最初に単独飛行を許可されるか、それが最高の評価の目安になりました。自信があった    が、実現する迄は気が気ではありません。

・分科
戦闘、偵察、爆撃の分科の方向も決定する段階である。特殊飛行の訓練では、自分では分からなかったが、私の進歩が他の者には付いていけないからと云うことで、小花教官の指導を受けることになった。小花教官は、何か、操縦が荒く、ギゴチなくて、井上さんとは全然勝手が違う。途方に暮れた気分になった。

一週間程して、井上さんに同乗させて貰うと小花教官から教わった種目をやったあと、井上さんが「これはいかん荒くなっている。」と云って、俺がやる(教える)と云ってくださって、私はホットしました。小花さんは軽爆だったそうです。

・小谷
ピストから飛行機の待機所の間をライバルと思っていた小谷がフーフー云いながら真っ青になり、ヘタバリそうな顔色になっていた。何か大きなエラーをやらなければそんな罰は課せられない筈である。小谷は立っているのもやっとと云う状態だった。重い一式飛行服だったから大変だったことでしょう。井上助教曰く、「まだ、走っているのか? 忘れていたよ。」とケリリとしたもの。

・井上組トップ
単独飛行は井上組がトップで、離陸の時、少し左に引っかけられたが、それは承知の上、着陸もバウンド一つせずに気持ちよい着陸が出来た。

・編隊の訓練
ある時小花教官から「山崎は何の分科に行くのか」と名指しで云われました。当時は編隊の訓練が始まったところで、一機長、一機翼 隊長機は井上准尉。思う様に出来ない。それで教官に「偵察にします。」と返事をしたところ、後で井上助教から「馬鹿な事を云うな。まだ下手な奴がいる。」と釘を差されました。そんなもんかと思いましたが、暫くしたら何とか思うように出来るようになりました。

・単独航法
いよいよ卒業前、単独航法の一回目は千葉県銚子、高度1,500m、速度200km 航空地区目ざし、左脚の大腿骨の所につけて、時間と目印を合わせながら、野田町のキッコーマン醤油の煙突を左側15度の所を通過すると間もなく犬吠埼、九十九里浜のなだらかな渚、穏やかな波頭、本当に絵に書いたような平和で美しい浜辺でした。しかし、ウットリ見る時間はない。すぐ確認し、Uターン、そして無事、桶川到着。九十九里浜がアメリカ軍から砲撃や爆撃を受けないで本当によかったと思う。

・相模原飛行場
二回目の単独航法は神奈川県相模原飛行場まで。関東平野は飛行場が多い。目標を定めて離陸、間もなく八王子の連山を左にみて進む。南からは太平洋の暖気流が吹いてくる。飛行機は押し止められる。右は関東平野で寒気流だ。連山の関係で上がったり下がったり、乱気流にはまって、飛行機はガクンガクン、エアーポケットに入ったりと、散々だったが、何とか目標の近くに着き、時間通り飛行場の上に出た。ここだったらと、思い切って着陸した。計画通り相模原飛行場に到着。申告して直ちに帰路に着く。一つの成功が何と云っても自信につながる。ほかの飛行場に着陸してしまった者も何人かいるようだった。

・熊校校長櫻井少将の視察
緊急に熊谷本校から校長櫻井少将の視察があると云う事で、講堂に集合。校長は、割り合い小さな人で、飛行帽を斜めにかぶって足早に入場してきた。飛行時間も長く、ベテランようで、話し方もザックバラン、親しい感じを受けました。少将は突然、「真珠湾攻撃の時、日本空軍は風上から攻撃したか、風下攻撃したか」と質問。「18番!」。18番は私の席番でしたが、例の通りウツラウツラの夢心地でしたが、質問の言葉は何とか耳に入りましたし、その件は何かの機会に或る週刊誌で読んでありましたので、「風上から攻撃します!」。正解でした。

おそらく閣下は私のウツラウツラ姿を見て指名されたのでしょう。空軍で少将になられた人ですから、私が難なく答えたことで、本部の隊長、教官もホットしたことでしょう。終わってから、皆廊下一列に並びました。見送りではなったかと思います。副官だったろうと思いますが、中山少佐殿が見廻に来て顎が出ていると一発喰らいました。ここでは、殆どビンタを食ったことはなかったので、なぜか、スッーとした気持ちになったことを覚えています。

・気象学
学科は機関と気象学です。文科系のコースを経てきておりますので、エンジンの構造とか部分の名称、部品の名前はチンプンカンもよいところ、居眠りに集中、整備のことなど関係ないと思って、操縦のことばかり考えていました。  次の気象学は軍属の左官殿、関西弁、こちらはカチカチのサツマ弁、気合いの抜けることこの上ない。紀伊半島のネック、鈴鹿峠上空の天気図を書いて、また私が指名されました。この気象状態で出発するかどうかと云う質問です。私は、そんな天気図を幾ら見ても分かりはしません。「行きます」と答えると、「死ぬやろな。」気抜けしてヘタリ込みました。気象はどうであっても、命令がないのに、行くも行かないもないのです。

・分科の決定
なんと云っても空軍の花形は戦闘機です。私は訓練をし終えてピストに駆けるようとすると、小花教官に大きな声で「山崎、貴様は戦闘だ」といわれました。極めて異例のことで私も驚きましたが、勿論、一発で決定です。

・朝鮮人大原(宗孝○)君のこと
彼は大変温和しい人物で、心から日本人になりきった男でした。その後どうしたろうかと考えたりしておりましたが、何年か前に便りがありました。箱根かどこかで事故でも起こしたのか、右足を痛めたとのこと。また、故国の韓国に帰ってから軍に入ってアメリカで教育を受け、将官まで進んだとのことです。桶川時代の写真も入れてありました。
政情の複雑な国です。字も上手で、手紙は毛筆で来ましたが、大変な達筆で、私など到底及びません。桶川会のことも案内したのですが、先年、奥さんは亡くなられたとのことでした。

・軍刀
卒業も真近かになった頃、ガラーッと大きなドアが開く大きな音がした。ナンダナンダと、皆が寄って行きました。軍刀である。注文していた者が軍刀を受け取りに集まったのである。所謂、満鉄刀である。卒業すると曹長刀は取り上げられる。任官するのだから軍刀は私物でなければならない。値段が幾らしたのか知らないが、鞘はジュラルミンで、刀身はステンレスか何かであったであろう。

私の場合は、家の魂と思って学生時代から白鞘の何回か研いだらしい若干薄刃の長は2尺1寸○○○の刀を下宿に飾っていたのだが、軍人の家族寮に下宿していたので、寮長の田川大佐に「見せてみろ。」と云われ、お見せしたところ「これは軍刀に丁度よい。」備前物だと云われた。備前は長船で名刀を産する国である。大佐が偕行社に頼んでやると云って下さったので、そのまま刀は大佐に依頼しました。満鉄刀は来たが、私の軍刀は中々届かない。二十日位遅れて届いたが、鞘は真鍮でズッシリ重い、さすがに偕行社である。満鉄刀と比べると品がある様な感じがした。製作費60円。当時の東京の下宿代だ。私の場合、2食付の50円だったから相当な額になる。因みに、曹長の給料は45円、当時の田舎の小学校長クラスで、42円〜45円位だったらしい。曹長刀でなく伝家の刀を軍刀にして歩いてみると、愈ヽ、帝国陸軍将校の意識が強くなった。これも、台湾での武装解除で返上してしまいましたが、帰ってからも、何回か刀の夢を見ました。   
 

Copyright(C) OKEGAWA HIKO GAKKOU WO KATARITUGUKAI All Rights Reserved Web Design by Mujika Inc.